ミニ小説【三度目の正直】 企業再生:明治スタイル

シブサワ・アンド・カンパニー渋澤健が綴る「オルタナティブ投資」の世界。「オルタナティブ投資」が目指す絶対的収益の根源とは?(現在は更新しておりません)

ミニ小説【三度目の正直】 企業再生:明治スタイル

第一章

 明治24年。中上川彦次郎は、英国の留学時代に井上馨に気に入ってもらった縁で三井家の改革に抜擢され、三井銀行、三井物産、三井鉱山の各社の理事として就任した。中上川、37歳であった。

 中上川はまず、当時の三井銀行の幹部であった三井組出身者をパージした。その代わりに自分の母校であった慶応義塾出身の有能な人材を経営幹部として採用する。その中に、藤山雷太(当時28歳)が含まれていた。中上川は、実力主義に徹し、優秀な人物には当時の世間が驚くほどの高給を支払った。
 中上川が三井銀行で直面した重大課題は不良貸金の整理であった。例えば、東本願寺。100 万円(現在の約50億円)の貸付が焦げ付いていたが、本山所有の不動産などの資産は実際には抵当登記が行われていなかった。

 中上川は即に決断を下した。抵当登記を行い、返済できない場合は本願寺の所有物を競売すると要請。本願寺側は思わぬ常識外れの強行に腰を抜かしたが、このままでは寺を失ってしまう。尻に火がついて、180万円の寄付をかき集めた。

 つまり、三井銀行に返済できただけではなく、手元に80万円が残った結果になった訳だ。中上川はこのような、強行手法により次々と不良貸付を回収し成果を上げていった。

 三井銀行の不良債権処理は、中上川の大構想の極一部に過ぎなかった。中上川が頭の中に描いていたのは、三井家の工業化。そのためには、戦略的な事業を支配下に取り組むことが必要であると考えた。

 明治29年に中上川は、渋沢栄一が会長であった王子製紙に、芝浦製作所(東芝の前身)で所長として実績を上げていた腹心の藤山雷太を専務取締役として送り込む。王子製紙は、渋沢栄一が明治6年に第一国立銀行と同じ時期に設立した企業であり、極めてファミリービジネスに近いものであった。しかし、三井は大株主であったので、当然、経営者は送り込める。

 二年後の明治31年、渋沢(当時57歳)に藤山(当時35歳)は面と向かって要請した。「王子製紙の事業不振は経営陣に的確な人材がいないからだ。手を引いてくれ。」

 20歳以上後輩の一方的な要請に渋沢は、ムッとした。しかし、冷静に考えてみると、この若者の主張には一理ある。創業してから25年間ほど指揮を執ったと言っても、会社は自分のものではない。多数の株主のものである。もし、新しい経営者の指導によって事業が発展するのであれば、それでもよかろう。
 渋沢栄一は側近幹部も説得し、自ら経営から退陣することに決断した。中上川と藤山は、王子製紙の「乗っ取り」に成功する。

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